CONCEPT
単なるキャラクターや文字の羅列ではなく、
歴史的な出来事そのものをデザインに落とし込んでいく。
単なるデザインTシャツではなく、
歴史を通じたコミュニケーションツールである。
軽野造船所は神話から近代まで、あらゆる歴史物語をカタチにする。
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Road to NANBOKU-CHO (南北朝への道)
¥4,000
全国的な動乱であった南北朝時代に登場する主な地名を記し、主要な合戦を交戦勢力の家紋で表現しました。 足利尊氏の経路を破線と実線で表し、右隅の騎馬武者像は、足元を変えて各地の動乱を駆け抜ける疾走感を表現しました。 関連地域:鎌倉市・足利市・富士市・静岡県小山町・奈良県吉野町・神戸市・京都市など 歴史物語の背景 鎌倉幕府末期、幕府は社会の変化に対応できないまま、各地で倒幕の火が燃え広がり幕府は倒された。 共通の敵を倒した後、新たな世の中を目指して、新たな形を創ろうとする者、旧来の姿に戻そうと計る者、朝廷・武家とも思惑は巡りめぐって親兄弟で相争い、何を信じて良いか判らぬまま、新たな時代が模索された南北朝時代。 ※本商品にはこの商品説明文を記したカードが同梱されています。
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Castle of raising a SOUN (早雲旗揚げ バックプリントあり)
¥4,000
「早雲旗揚げの城」と呼ばれる興国寺城(沼津市)の縄張を、中央部の騎乗の早雲、幟を持つ足軽、下部の地図によって大枠で表現しています。 周囲の幟と棹立ちする馬で「旗揚げ」を表現しました。 下部の地図は、早雲が興国寺城から伊豆・相模へと進軍した際に合戦となった城を示しています。 関連地域:沼津市・伊豆の国市・小田原市・鎌倉市・三浦市・横浜市 歴史物語の背景 戦国時代の関東に覇を唱えた小田原北条氏の祖・早雲は、元は室町幕府将軍への陳情などを取次ぐ申次衆を務めていた伊勢氏の一族であり、伊勢盛時と名乗っていた。 今川氏に嫁いだ妹(姉とも)・北川殿から家督争いの仲介を頼まれ駿河に向かう。北川殿の夫である今川義忠が戦死し、嫡男であり盛時の甥である龍王丸は幼かった。そこで一族の小鹿範満を推す家臣や、関東の扇谷上杉氏が介入するなど、龍王丸と北川殿の身が危ぶまれたのだ。そこで盛時は、龍王丸が成人するまで家督を代行し、龍王丸の成人を以って家督を嫡流に戻す、という案で治めた。 数年後、龍王丸が成長しても小鹿範満は家督を譲ろうとしなかったのである。駿河に入った盛時は小鹿範満を討ち果たし、龍王丸に家督継承を行った。 龍王丸は元服して今川氏親となり、盛時に興国寺城を与えた。盛時はその後、伊豆・相模へと支配地を拡げ、関東の新たな勢力として台頭、関東に覇を唱えた北条氏の祖となっていくのである。
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Castle of raising a SOUN (早雲旗揚げ)
¥3,500
「早雲旗揚げの城」と呼ばれる興国寺城(沼津市)の縄張を、中央部の騎乗の早雲、幟を持つ足軽、下部の地図によって大枠で表現しています。 周囲の幟と棹立ちする馬で「旗揚げ」を表現しました。 下部の地図は、早雲が興国寺城から伊豆・相模へと進軍した際に合戦となった城を示しています。 関連地域:沼津市・伊豆の国市・小田原市・鎌倉市・三浦市・横浜市 歴史物語の背景 戦国時代の関東に覇を唱えた小田原北条氏の祖・早雲は、元は室町幕府将軍への陳情などを取次ぐ申次衆を務めていた伊勢氏の一族であり、伊勢盛時と名乗っていた。 今川氏に嫁いだ妹(姉とも)・北川殿から家督争いの仲介を頼まれ駿河に向かう。北川殿の夫である今川義忠が戦死し、嫡男であり盛時の甥である龍王丸は幼かった。そこで一族の小鹿範満を推す家臣や、関東の扇谷上杉氏が介入するなど、龍王丸と北川殿の身が危ぶまれたのだ。そこで盛時は、龍王丸が成人するまで家督を代行し、龍王丸の成人を以って家督を嫡流に戻す、という案で治めた。 数年後、龍王丸が成長しても小鹿範満は家督を譲ろうとしなかったのである。駿河に入った盛時は小鹿範満を討ち果たし、龍王丸に家督継承を行った。 龍王丸は元服して今川氏親となり、盛時に興国寺城を与えた。盛時はその後、伊豆・相模へと支配地を拡げ、関東の新たな勢力として台頭、関東に覇を唱えた北条氏の祖となっていくのである。
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Battle of HAKUSUKINOE (白村江の戦い)
¥3,500
上部に唐軍の軍船を大きく表し「圧倒的な力」「立ち塞がる壁」をイメージして表現しました。 中段に無数の倭国軍の軍船と、雨あられのように浴びせられる火矢によって、「白村江赤に染まる」と表現された業火を表現しました。 下方にこの戦いに参戦した廬原君(いほはらのきみ)のシルエットと、廬原国から白村江までの道のりを表現しました。 関連地域:静岡市・大阪市・松山市・福岡市など 歴史物語の背景 西暦660年3月、朝鮮半島の一国・百済(くだら)が新羅(しらぎ)と中国・唐の連合軍に攻められ、7月18日に百済の義慈王が降伏し滅亡した。 百済の遺臣・鬼室福信をはじめとする百済の残党勢力は周留(する)城を拠点に各地で抵抗し、百済復興運動を展開する。百済復興軍は、倭国(日本)に滞在していた百済王族・豊璋を擁立しようと、倭国に支援を要請、中大兄皇子は支援を承諾し百済救援軍の組織を進めた。 661年5月、豊璋を護送するための先遣隊一万人がが出発、朝鮮半島上陸に成功し現地の福信軍と合流、その後も兵を訓練し武具や船を整えた。662年3月、主力部隊・二万七千人が上陸した。663年、廬原国(安倍川と富士川の間)の豪族・廬原君臣足(いおはらのきみおみたり)を指揮官とする第三軍、一万余人が出発。水軍が主力であった。 豊璋は「大日本の救将・廬原君が健児一万を率いて海を越えて来る」と、諸将を鼓舞し、白村江にと向かった。 663年8月28日夜半、白村江にて両軍が激突。倭国軍は四度突撃を敢行するも唐水軍は乱れず、干潮の時間となり倭国の水軍は舟が乗り上げて動きが取れなくなり、火攻めによって倭国軍は大敗した。 陸上の百済復興軍と倭国軍共に壊滅。生き残った倭国水軍は倭国軍と亡命を望む百済の遺民を連れて帰国した。 この敗戦により、唐・新羅軍に侵攻される危惧から列島各地に城を構築し、飛鳥から大津への遷都、防人の配備など防衛体制を整え、国家を中央集権体制へと転換した。廬原国も珠流河国と合併となり、新たな駿河国となった。 倭国ら日本へと移りゆく中に、駿河湾地域の人々が遠い見知らぬ異国で散ったのであった。
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Holy sword in the flame (日本武尊)
¥3,500
火に包まれながらも、草を薙ぎ払うヤマトタケルをデザインしました。 その下には、ヤマトタケルが遠征した道のりを示し、逸話が残る地名を表記しています。 更に、ヤマトタケルが亡くなった所から大きな白鳥が飛び去ったという逸話から、西へ向かう白鳥も表しました。 関連地域:静岡市・焼津市・小山町・甲府市・横須賀市・出雲市・桜井市など 第十二代天皇・景行天皇の皇子・小碓命(オウスノミコト)は生来怪力であり、実の兄をも掴み殺してしまう程であった。それを恐れた景行天皇は各地で未だ従わない勢力の討伐を命じる事で、小碓命を遠ざける。 兵力も装備も不足する中、伊勢神宮の斎王である伯母の倭姫(ヤマトヒメ)からの贈り物で切り抜けていく。九州の熊襲建(クマソタケル)を倒した際、倭建(ヤマトタケル)という名を贈られる。大和に帰還する途中には、出雲の出雲建(イズモタケル)も倒す。 その後、大和に帰還したが、すぐさま東国への派遣を命じられる。倭建は父から認められていないと苦悩し、その事を倭姫に相談すると、ヤマタノオロチから出現した神剣・天叢雲剣(アメノムラクモ)を預けられる。 東国へ向かった倭建は途中、罠に嵌り火に包まれる。倭建は倭姫から預かった神剣で草を薙ぎ払い、迎え火で以って切り抜けた。倭建はこの事から神剣を「草薙剣」と名付け、現在の皇室に伝わる三種の神器の一つとなる。
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Volcano with KOTOSHIRONUSHI (造島神話)
¥3,000
伊豆諸島に近付いた事代主神(三嶋大神)を左下に配置し、噴火によって島が生み出されていく様を表しました。 伊豆諸島の島々には造島神話の中で生まれた順番を振ってあります。 更に、三宅島から三島大神が移って来たという伝承から、破線によって三宅島、白浜、広瀬、そして三島に至るまでの足跡を示しています。 サイズは全てXLサイズ 色は全てネイビーです。 関連地域:三島市・下田市・伊豆の国市・熱海市・伊豆諸島島嶼部 歴史物語の背景 日本神話「国ゆずり」にて国を失った大国主の子・事代主命(ことしろぬしのみこと)は、新たに治めるべき地を求めて出雲より船出し、伊豆半島の近くにて仰ぎ見たフジの神に 「私の治めるべき地は無いであろうか。」 と尋ねた。フジの神は 「治める土地は無いが、海から島を焼き出そう。」 と答え、次々と海中から島を焼き出していった。 第一に出来た島を初島。 第二の島は神々が本拠として集合されたので神集め島。 (神津島) 第三の島は大きいので大島。 第四の島は塩の泡を集めて築き色が白いので新し島。 (新島) 第五の島は家が三つ並んだようなので三宅島。 第六の島は神の御倉を置こうというので御蔵島。 第七の島は遥か沖にあるので沖の島。 (八丈島) 第八の島は小さいので小島。 (八丈小島) 第九の島は王の鼻に似ているというので王鼻島(おうごじま)。 (青ヶ島) 第十の島は十島とそれぞれ命名された。 (利島) 三宅島に居を構えた事代主命は、伊豆の白浜、田京の広瀬、そして三島に移った。これが伊豆諸島に伝わる造島神話である。 ※伊豆一之宮である三嶋大社は、元は三宅島(富賀神社)、下田市白浜(白浜神社)、伊豆の国市田京(広瀬神社)、三嶋大社へと遷宮が行われたという伝承がある。(三宅記より)
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Pacific Survivor JUKICHI (督乗丸漂流)
¥3,500
督乗丸が漂流した太平洋の中に、督乗丸が漂流していたであろう経路は破線にて示し、 イギリス船に救助された後の経路は実線で示しています。漂流時と救助された日時を表記。 漂流中に体験した日照りや鮫との遭遇、イギリス船、北米大陸での日本人との遭遇、 シトカの城、氷山、熊との遭遇などをアイコンとして配置しました。 関連地域:西尾市・半田市・南伊豆町 歴史物語の背景 文化十年(1813)10月、尾張藩名古屋納屋町の小嶋屋庄右衛門所有の船 「督乗丸(とくじょうまる)」は、船頭・重吉以下13名の乗組員は尾張藩の廻米を積み 知多半島の先端・師崎から江戸へ出航した。 その帰路である11月4日、駿河湾洋上にて暴風に巻き込まれて漂流してしまう。 重吉は食料や水の配分に気を遣い、弱気になる乗組員たちを様々な方法で士気を高め、 長期に亘る漂流を耐え抜こうと努力する。 裸でも耐えられない暑さの中、雨が降らず海水を蒸留して飲料水を作るなど努力するが、 次々に乗組員たちは斃れ、生存者は重吉含め三人だけとなった。 漂流から484日。督乗丸は英国船・フォレスタ号に発見され救助された。 船長・ピゴットは長期の漂流を耐え抜いた重吉を船長として扱い、帰国に便宜を図る。 途中で上陸したルキンという町には先に漂着した日本人が木材の筏流しで生計を立てていた。更にシトカの街にはアラスカの領主・バラノフの元で働く誘いを受ける。 しかし重吉は船頭として、二人を帰国させる事に責任感を持つ。 カムチャツカでは、日本人に好意的なロシア人の世話になり、 別に漂流していた薩摩出身者と越冬。 翌春にロシア側が船を出し、日本人たちを乗せて日本近海まで近付くと、 重吉は小舟で下船する。 その後、択捉島の幕府の番所に出頭し、その後帰国した。漂流から三年半が経っていた。 帰国した重吉は尾張藩の役人に成り得たが、漂流中に誓った死んだ仲間たちの慰霊碑を建てる事に尽力する。 重吉は寺社の門前などで、漂流中の顛末を語り、憶えた英露の言葉を集めた単語帳を売って寄付を求めた。 多額の寄付を申し出る人も居たが、死んだ12人にちなんで一人当たり12文にこだわった。 喜捨を求めて三年後、笠寺観音の境内に慰霊碑を建立した。 現在は成福寺という寺の境内にある。
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Battle of Suruga Bay (駿河湾海戦 バックプリントあり)
¥4,000
駿河湾を挟んで、駿河の武田方、伊豆の北条方と言う事で各々の家紋を配し、 各陣営の水軍城があった所に城のマークと名称をポインティング。 中央部の軍船は上部の小回りの利く関船、下部の大型で多数の兵士が乗船できる安宅船が、 火矢・銃弾を撃ち合っている中、安宅船に搭載されていたという大砲の砲弾を忍ばせてあります。 関連地域:沼津市・静岡市・伊豆市・牧之原市・下田市・西伊豆町 歴史物語の背景 天正七年(1579)、それまで同盟関係にあった武田氏と北条氏は敵対する事になり、 駿東地域の緊張が高まった。武田氏、北条氏共に最前線に城を構築し、 駿河湾の制海権を握ろうと水軍を拡充する事になる。 武田氏は駿河を手に入れてから旧今川水軍の伊丹氏・岡部氏をはじめ、 伊豆の間宮氏を迎えると共に、伊勢の海賊衆であった向井氏・小浜氏招いて、 三枚橋城・江尻城・持舟城・相良城を構築・拡充する。 北条氏は在地の富永氏(土肥)・高橋氏(雲見)・松下氏(三津)・鈴木氏(江梨)らに加え、 熊野の海賊である梶原景宗を招き、長浜城・丸山城・田子城・安良里城・下田城を拡充するとともに、西伊豆の峠に烽火台を築いた。 天正八年(1580)3月、武田勝頼が駿河に出陣し、浮島ヶ原に布陣。 それに対応して北条氏政も小田原を出陣し三島に布陣、総勢二万五千、 両家の当主が対峙する事になった。 この対陣から動きを見せたのは双方の水軍であった。 江尻から武田水軍が出航、3月15日に武田水軍が長浜城に鉄砲を撃ち、港に放火する。 武田方の向井正綱が北条水軍の安宅船を奪ったとも伝えられる。 予測していた北条方は大型の兵船・安宅船十艘で迎撃し武田方を追いたてたが、 三枚橋城から武田方の関船が出撃し混戦状態となった。 北条方は二隻を三枚橋城からの出撃に対応させ、残り八隻で武田方を包囲しようとする。 武田方の関船は船足が速く、北条方の攻撃を巧みにかわす。 武田方は千本浜に布陣していた鉄砲隊が援護射撃をするも、北条方の安宅船には通用しなかった。 陸海入り乱れて激戦が繰り広げられたが、日が暮れたため双方が引き揚げ帰陣した。 これ以後、武田氏の滅亡まで、駿河湾の制海権を巡って駿河湾各地で武田・北条の水軍が衝突する事になる。
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Seven Soldier in ABE (安倍七騎)
¥3,500
駿河・安倍川流域で活躍した、七人の地侍それぞれの特徴を捉え、彼らの居た地名や作中に登場した城の名称と共に配置しました。 関連地域:静岡市・焼津市 色は全てネイビーです。 歴史物語の背景 安倍七騎(あべしちき)は安倍川周辺を拠点とし、 甲斐の武田、相模の北条、駿河の今川という三つ巴の勢力が覇を競った時代に 活躍したと伝承される武士団である。 時代や史料によって七人の構成は様々だが、 村岡村の山賊上がり・末高半左衛門、 俵峰村の強弓引き・杉山小兵衛、 「首無し」と呼ばれた筋肉を誇る望月四郎右衛門、 上落合村の「義の人」大石五郎右衛門、 腰越村の隻眼の槍使い長嶋甚太右衛門、 落合村の年老いたものの一花咲かせようとする狩野弥次郎、 足窪村の先祖伝来の兜が自慢の石貝重郎左衛門 といった、地侍や浪人、山賊など様々な出自を持っていた。 「安倍七騎」は武田氏の配下となり、遠江国の小山城篭城戦、甲斐国、 信濃国川中島高遠などにおいて数度の軍功を上げ、武田家より朱印を賜ったと伝えられる。 やがて武田氏は長篠の戦いに破れ、落ち目になっていた武田方の中で、 唯一歴戦の兵として活躍して、侵攻した徳川軍を退却させた。 その後、七騎の内、石貝重郎左衛門、末高半左衛門は徳川家の旗本となり、 杉山小兵衛と望月四郎右衛門は武士をやめ百姓になったという。 長島甚太右衛門も土地に残ったが、家運傾き元和年間に一家は離散滅亡した。 狩野弥次郎は村に残り里長を勤めた。 大石五郎右衛門は義兄である庄屋の圧政に立ち上がり最後は毒矢を受けて死す。 今でも村人に慕われ墓は上落合の畑に建つ。
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Battle of Suruga Bay (駿河湾海戦)
¥3,000
駿河湾を挟んで、駿河の武田方、伊豆の北条方と言う事で各々の家紋を配し、 各陣営の水軍城があった所に城のマークと名称をポインティング。 中央部の軍船は上部の小回りの利く関船、下部の大型で多数の兵士が乗船できる安宅船が、 火矢・銃弾を撃ち合っている中、安宅船に搭載されていたという大砲の砲弾を忍ばせてあります。 関連地域:沼津市・静岡市・伊豆市・牧之原市・下田市・西伊豆町 歴史物語の背景 天正七年(1579)、それまで同盟関係にあった武田氏と北条氏は敵対する事になり、 駿東地域の緊張が高まった。武田氏、北条氏共に最前線に城を構築し、 駿河湾の制海権を握ろうと水軍を拡充する事になる。 武田氏は駿河を手に入れてから旧今川水軍の伊丹氏・岡部氏をはじめ、 伊豆の間宮氏を迎えると共に、伊勢の海賊衆であった向井氏・小浜氏招いて、 三枚橋城・江尻城・持舟城・相良城を構築・拡充する。 北条氏は在地の富永氏(土肥)・高橋氏(雲見)・松下氏(三津)・鈴木氏(江梨)らに加え、 熊野の海賊である梶原景宗を招き、長浜城・丸山城・田子城・安良里城・下田城を拡充するとともに、西伊豆の峠に烽火台を築いた。 天正八年(1580)3月、武田勝頼が駿河に出陣し、浮島ヶ原に布陣。 それに対応して北条氏政も小田原を出陣し三島に布陣、総勢二万五千、 両家の当主が対峙する事になった。 この対陣から動きを見せたのは双方の水軍であった。 江尻から武田水軍が出航、3月15日に武田水軍が長浜城に鉄砲を撃ち、港に放火する。 武田方の向井正綱が北条水軍の安宅船を奪ったとも伝えられる。 予測していた北条方は大型の兵船・安宅船十艘で迎撃し武田方を追いたてたが、 三枚橋城から武田方の関船が出撃し混戦状態となった。 北条方は二隻を三枚橋城からの出撃に対応させ、残り八隻で武田方を包囲しようとする。 武田方の関船は船足が速く、北条方の攻撃を巧みにかわす。 武田方は千本浜に布陣していた鉄砲隊が援護射撃をするも、北条方の安宅船には通用しなかった。 陸海入り乱れて激戦が繰り広げられたが、日が暮れたため双方が引き揚げ帰陣した。 これ以後、武田氏の滅亡まで、駿河湾の制海権を巡って駿河湾各地で武田・北条の水軍が衝突する事になる。
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SOUN'S Dream (早雲の夢)
¥3,500
小田原北条氏が用いた「虎印」を大枠とし、内側に早雲が見たという夢をデザインしました。 小田原北条氏の最大版図となった関東の領域を地図で示し、そこに二本の大杉を齧り倒したネズミを配置、 そのネズミが虎印の虎に変化する様を表し、下に夢のきっかけとなった三嶋大社を配置しています。 背景となった物語 戦国時代の関東に覇を唱えた小田原北条氏の祖・伊勢盛時(後の北条早雲)は、興国寺城での旗揚げ後も駿河の今川氏と協力し、勢力の拡大を図っていた。 足利将軍家の堀越公方の内紛により混乱した伊豆を切り取り、一国の主となった早雲は更なる野心を混乱渦巻く関東に向けていた。 そこで鎌倉幕府を開いた源頼朝公にあやかり、伊豆一之宮である三嶋大明神に、 「鎌倉北条氏の後を継いで、関東の覇権を獲りたい」と祈願していた。 すると、その翌年の正月に初夢を見た。 「大きな野原に二本の大きな杉の木が立っていた。そこに一匹のネズミが現れ、 その大杉の根を齧り続けると、やがて二本の杉は倒れ、ネズミは虎に変わり、野原を駆け抜けた。」という夢であった。 これは二本の杉(山内上杉家と扇谷上杉家)が倒れて、 ネズミ(早雲は子年生まれ)が虎(関東の支配者)になるという縁起が良いものとされた。 早雲はその夢にちなんで、発行する文書に押す北条氏の印に虎の模様をつけた虎印を用いるようになった。 早雲はその後、相模も攻略して関東で最も勢いがある戦国大名にのし上がった。 だが、それまでの苦労を忘れることなく自らは質素な生活をし、 苦労を共にした六人の仲間たちを家老とし、後の北条氏を支える存在とした。 また、小田原の街づくりを行い、病で困っている民には京から薬師や医師を呼び寄せ助けた。 更に農民の年貢を軽くし、攻め込んだ土地も略奪をせず農地荒らすことが無いなど農民への配慮も忘れなかった事から、関東一円の農民は早雲の支配下に入る事を望んだという。 北条氏はこれ以後、関東の農民たちから慕われ、それは江戸時代になっても語り継がれることになる。
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Friend Ship on HEDA (ヘダ号建造・バックプリントあり)
¥4,000
波静かな戸田湾の中に浮かぶヘダ号と、湾の外側を向くヘダ号の乗組員の帰国への波乱を外海の荒波で表現しました。 左隅の錨と握手は、ロシア人と日本人の友情と協力。袖の形で日本人とロシア人を表現しました。 裏面にはロシアのプチャーチン提督が日本へ至るまでに乗船したパルラダ号・ディアナ号の航路と、帰国時に乗船したヘダ号の航路を示し、各船の諸元を示しています。 ※この商品は静岡県沼津市戸田の「道の駅くるら戸田」にて販売しております。 関連地域:沼津市戸田・下田市・富士市 歴史物語の背景 1853年8月、ロシアの海軍軍人・プチャーチンは、日本との国交交渉の為に来航し、下田にて幕府方と交渉が行われる事になった。 しかしその交渉の最中の1854年12月23日、安政東海地震が発生し、ロシアの軍艦ディアナ号も津波により大破、修理の為に駿河湾洋上を曳航中に悪天候となり、その波浪を受けて沈没した。乗組員約500名は富士沿岸の人々の決死の救出作業によって一人の犠牲者も出さなかった。 プチャーチンは幕府に代船建造の許可を願い出る。伊豆代官・江川太郎左衛門英龍はこれを洋式造船技術習得の好機と見、幕府に進言する。そこで波静かで外洋からは目立たない戸田村にて、ロシア人船員と伊豆の船大工たちによる代船の建造が開始された。 双方の思考錯誤の三ヶ月で代船が完成、戸田村民の好意に感激したプチャーチンは「ヘダ号」と命名した。プチャーチンをはじめとするディアナ号乗組員たちは無事ロシアへ帰国する事が出来、その後、ヘダ号は返還された。 「ヘダ号」はスクーナー型と呼ばれる船種であり、それまでの和船に比べ、速力が倍以上であったことから、幕府は同型船を4船建造する。この建造に携わった船大工たちは、習得した技術を生かして日本各地での洋式船建造に活躍する。船大工・上田寅吉はオランダに留学して造船技術を学び、鈴木長吉は太平洋を横断する咸臨丸の船大工となり、緒明菊三郎はこの経験を活かして明治期に造船王と呼ばれ、その子孫が後に楽寿園となる小松宮別邸に住まう事になる。 この事からも、戸田は日本の近代造船発祥の地であり、下田・戸田・富士は日露友好の地である。 ※デザインの意図を開設したカードをTシャツに添付します。
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ヘダ号マスクカバー
¥1,300
日本近代造船の嚆矢となった、ロシア人と伊豆の船大工との共同で造られたヘダ号をプリントした布マスクカバーです。(不織布マスクをした上でのマスクカバーをして下さい。) ※この商品は静岡県沼津市戸田の「道の駅くるら戸田」にて販売しております。 歴史物語の背景 1853年8月、ロシアの海軍軍人・プチャーチンは、日本との国交交渉の為に来航し、下田にて幕府方と交渉が行われる事になった。 しかしその交渉の最中の1854年12月23日、安政東海地震が発生し、ロシアの軍艦ディアナ号も津波により大破、修理の為に駿河湾洋上を曳航中に悪天候となり、その波浪を受けて沈没した。乗組員約500名は富士沿岸の人々の決死の救出作業によって一人の犠牲者も出さなかった。 プチャーチンは幕府に代船建造の許可を願い出る。伊豆代官・江川太郎左衛門英龍はこれを洋式造船技術習得の好機と見、幕府に進言する。そこで波静かで外洋からは目立たない戸田村にて、ロシア人船員と伊豆の船大工たちによる代船の建造が開始された。 双方の思考錯誤の三ヶ月で代船が完成、戸田村民の好意に感激したプチャーチンは「ヘダ号」と命名した。プチャーチンをはじめとするディアナ号乗組員たちは無事ロシアへ帰国する事が出来、その後、ヘダ号は返還された。 「ヘダ号」はスクーナー型と呼ばれる船種であり、それまでの和船に比べ、速力が倍以上であったことから、幕府は同型船を4船建造する。この建造に携わった船大工たちは、習得した技術を生かして日本各地での洋式船建造に活躍する。船大工・上田寅吉はオランダに留学して造船技術を学び、鈴木長吉は太平洋を横断する咸臨丸の船大工となり、緒明菊三郎はこの経験を活かして明治期に造船王と呼ばれ、その子孫が後に楽寿園となる小松宮別邸に住まう事になる。 この事からも、戸田は日本の近代造船発祥の地であり、下田・戸田・富士は日露友好の地である。 関連地域:沼津市戸田・下田市・富士市 ※デザインの意図を開設したカードをTシャツに添付します。
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【ドライ素材】ヘダ号建造 (Friendship on HEDA)
¥4,500
波静かな戸田湾の中に浮かぶヘダ号と、湾の外側を向くヘダ号の乗組員の帰国への波乱を外海の荒波で表現しました。 左隅の錨と握手は、ロシア人と日本人の友情と協力。袖の形で日本人とロシア人を表現しました。 裏面にはロシアのプチャーチン提督が日本へ至るまでに乗船したパルラダ号・ディアナ号の航路と、帰国時に乗船したヘダ号の航路を示し、各船の諸元を示しています。 ドライ素材は汗をかいても速乾性でさらりとした触感は夏でも快適です。 ※この商品は静岡県沼津市戸田の「道の駅くるら戸田」にて販売しております。 関連地域:沼津市戸田・下田市・富士市 歴史物語の背景 1853年8月、ロシアの海軍軍人・プチャーチンは、日本との国交交渉の為に来航し、下田にて幕府方と交渉が行われる事になった。 しかしその交渉の最中の1854年12月23日、安政東海地震が発生し、ロシアの軍艦ディアナ号も津波により大破、修理の為に駿河湾洋上を曳航中に悪天候となり、その波浪を受けて沈没した。乗組員約500名は富士沿岸の人々の決死の救出作業によって一人の犠牲者も出さなかった。 プチャーチンは幕府に代船建造の許可を願い出る。伊豆代官・江川太郎左衛門英龍はこれを洋式造船技術習得の好機と見、幕府に進言する。そこで波静かで外洋からは目立たない戸田村にて、ロシア人船員と伊豆の船大工たちによる代船の建造が開始された。 双方の思考錯誤の三ヶ月で代船が完成、戸田村民の好意に感激したプチャーチンは「ヘダ号」と命名した。プチャーチンをはじめとするディアナ号乗組員たちは無事ロシアへ帰国する事が出来、その後、ヘダ号は返還された。 「ヘダ号」はスクーナー型と呼ばれる船種であり、それまでの和船に比べ、速力が倍以上であったことから、幕府は同型船を4船建造する。この建造に携わった船大工たちは、習得した技術を生かして日本各地での洋式船建造に活躍する。船大工・上田寅吉はオランダに留学して造船技術を学び、鈴木長吉は太平洋を横断する咸臨丸の船大工となり、緒明菊三郎はこの経験を活かして明治期に造船王と呼ばれ、その子孫が後に楽寿園となる小松宮別邸に住まう事になる。 この事からも、戸田は日本の近代造船発祥の地であり、下田・戸田・富士は日露友好の地である。 ※デザインの意図を開設したカードをTシャツに添付します。