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Battle of HAKUSUKINOE (白村江の戦い)

¥3,500 税込

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上部に唐軍の軍船を大きく表し「圧倒的な力」「立ち塞がる壁」をイメージして表現しました。
中段に無数の倭国軍の軍船と、雨あられのように浴びせられる火矢によって、「白村江赤に染まる」と表現された業火を表現しました。
下方にこの戦いに参戦した廬原君(いほはらのきみ)のシルエットと、廬原国から白村江までの道のりを表現しました。

関連地域:静岡市・大阪市・松山市・福岡市など

歴史物語の背景
西暦660年3月、朝鮮半島の一国・百済(くだら)が新羅(しらぎ)と中国・唐の連合軍に攻められ、7月18日に百済の義慈王が降伏し滅亡した。
百済の遺臣・鬼室福信をはじめとする百済の残党勢力は周留(する)城を拠点に各地で抵抗し、百済復興運動を展開する。百済復興軍は、倭国(日本)に滞在していた百済王族・豊璋を擁立しようと、倭国に支援を要請、中大兄皇子は支援を承諾し百済救援軍の組織を進めた。

661年5月、豊璋を護送するための先遣隊一万人がが出発、朝鮮半島上陸に成功し現地の福信軍と合流、その後も兵を訓練し武具や船を整えた。662年3月、主力部隊・二万七千人が上陸した。663年、廬原国(安倍川と富士川の間)の豪族・廬原君臣足(いおはらのきみおみたり)を指揮官とする第三軍、一万余人が出発。水軍が主力であった。

豊璋は「大日本の救将・廬原君が健児一万を率いて海を越えて来る」と、諸将を鼓舞し、白村江にと向かった。
663年8月28日夜半、白村江にて両軍が激突。倭国軍は四度突撃を敢行するも唐水軍は乱れず、干潮の時間となり倭国の水軍は舟が乗り上げて動きが取れなくなり、火攻めによって倭国軍は大敗した。
陸上の百済復興軍と倭国軍共に壊滅。生き残った倭国水軍は倭国軍と亡命を望む百済の遺民を連れて帰国した。

この敗戦により、唐・新羅軍に侵攻される危惧から列島各地に城を構築し、飛鳥から大津への遷都、防人の配備など防衛体制を整え、国家を中央集権体制へと転換した。廬原国も珠流河国と合併となり、新たな駿河国となった。
倭国ら日本へと移りゆく中に、駿河湾地域の人々が遠い見知らぬ異国で散ったのであった。

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