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Pacific Survivor JUKICHI (督乗丸漂流)

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督乗丸が漂流した太平洋の中に、督乗丸が漂流していたであろう経路は破線にて示し、
イギリス船に救助された後の経路は実線で示しています。漂流時と救助された日時を表記。
漂流中に体験した日照りや鮫との遭遇、イギリス船、北米大陸での日本人との遭遇、
シトカの城、氷山、熊との遭遇などをアイコンとして配置しました。

関連地域:西尾市・半田市・南伊豆町

歴史物語の背景
文化十年(1813)10月、尾張藩名古屋納屋町の小嶋屋庄右衛門所有の船
「督乗丸(とくじょうまる)」は、船頭・重吉以下13名の乗組員は尾張藩の廻米を積み
知多半島の先端・師崎から江戸へ出航した。

その帰路である11月4日、駿河湾洋上にて暴風に巻き込まれて漂流してしまう。
重吉は食料や水の配分に気を遣い、弱気になる乗組員たちを様々な方法で士気を高め、
長期に亘る漂流を耐え抜こうと努力する。
裸でも耐えられない暑さの中、雨が降らず海水を蒸留して飲料水を作るなど努力するが、
次々に乗組員たちは斃れ、生存者は重吉含め三人だけとなった。

漂流から484日。督乗丸は英国船・フォレスタ号に発見され救助された。
船長・ピゴットは長期の漂流を耐え抜いた重吉を船長として扱い、帰国に便宜を図る。
途中で上陸したルキンという町には先に漂着した日本人が木材の筏流しで生計を立てていた。更にシトカの街にはアラスカの領主・バラノフの元で働く誘いを受ける。
しかし重吉は船頭として、二人を帰国させる事に責任感を持つ。
カムチャツカでは、日本人に好意的なロシア人の世話になり、
別に漂流していた薩摩出身者と越冬。
翌春にロシア側が船を出し、日本人たちを乗せて日本近海まで近付くと、
重吉は小舟で下船する。
その後、択捉島の幕府の番所に出頭し、その後帰国した。漂流から三年半が経っていた。

帰国した重吉は尾張藩の役人に成り得たが、漂流中に誓った死んだ仲間たちの慰霊碑を建てる事に尽力する。
重吉は寺社の門前などで、漂流中の顛末を語り、憶えた英露の言葉を集めた単語帳を売って寄付を求めた。
多額の寄付を申し出る人も居たが、死んだ12人にちなんで一人当たり12文にこだわった。
喜捨を求めて三年後、笠寺観音の境内に慰霊碑を建立した。
現在は成福寺という寺の境内にある。

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